シャンパンの歴史は、フランス北東部シャンパーニュ地方の、もともと泡のないワインから始まります。瓶の中で偶然起きる「泡」は、はじめは困りものでしたが、17世紀のイギリスで砂糖を加えて泡立たせる方法が記録され、18〜19世紀のシャンパーニュでいまの造り方が形になりました。よく知られる「修道士ドン・ペリニヨンがシャンパンを発明した」という話は、後の時代につくられた伝説の要素が大きいとされています。
泡のない時代のシャンパーニュ
シャンパーニュ地方でのぶどう栽培は、ローマ時代までさかのぼると考えられています。中心都市ランスの大聖堂は、987年のユーグ・カペーの戴冠をはじめ、歴代フランス王の戴冠式が行われた場所として知られ、その土地のワインも王侯貴族に親しまれるようになりました。
ただし、この頃のシャンパーニュのワインは泡のない「スティルワイン」で、淡い色の赤ワインが中心でした。南のブルゴーニュと並ぶ、宮廷向けのワイン産地として競い合っていたといわれます。
シャンパーニュはぶどう栽培の北限に近い寒い土地です。秋に寒くなると発酵がいったん止まり、春に暖かくなると残っていた糖分でまた発酵が始まることがありました。瓶や樽の中でこれが起きると、ワインに炭酸ガスが溶け込み、泡立ちます。当時の瓶はこの圧力に耐えられず、破裂することも少なくなかったため、泡は「欠点」として扱われていました。
ドン・ペリニヨンの伝説と実際
ドン・ピエール・ペリニヨン(1638〜1715年)は、ベネディクト会の修道士で、1668年からオーヴィレール修道院のセラー(酒庫)の管理を任され、亡くなるまでその役目を務めました。
彼がシャンパンを「発明した」という話や、初めて泡立つワインを口にして「早く来てくれ、星を飲んでいる!」と叫んだという逸話は有名です。しかし、この言葉が文献に初めて現れるのは19世紀後半の広告だとされ、本人の言葉だったという裏づけはありません。コルク栓を使い始めた、味見だけでぶどう畑を言い当てた、といった話も、後世の修道士による記述などから広まったもので、史実としては疑わしいとされています。
実際のドン・ペリニヨンは、むしろ瓶の中での再発酵を避けようとしていたと考えられています。そのうえで、品質向上に大きく貢献したのは確かです。伝えられている主な取り組みは次のとおりです。
- 複数の畑のぶどうを組み合わせて(アッサンブラージュ)、味わいを整える
- 黒ぶどうのピノ・ノワールを重んじ、果皮の色が移らないように手早く、やさしく搾って白いワインをつくる
- 剪定を強めにして収量を抑え、収穫のしかたにも気を配る
「シャンパンの父」という呼び名は伝説の部分も大きいものの、シャンパーニュのワインを洗練させた人物であることは間違いありません。その名前は、のちにモエ・エ・シャンドンの最上級キュヴェ「ドン・ペリニヨン」として使われています(モエ・エ・シャンドンの記事もあわせてどうぞ)。
イギリスの役割:砂糖と丈夫な瓶
泡立つワインを意図して造る方法を最初に書き残したのは、フランスではなくイギリスでした。1662年、イギリスの科学者クリストファー・メレットは、ロンドンの王立協会で、ワインに砂糖や糖蜜を加えると泡立ち、生き生きとした味わいになるという報告を行っています。これはドン・ペリニヨンがオーヴィレールに着任する6年前のことです。
当時のイギリスには、シャンパーニュから樽でワインが運ばれていました。イギリスでは石炭を使う炉でガラスを作っていたため、フランスの瓶より厚くて丈夫な瓶を作ることができたといわれます。丈夫な瓶とコルク栓があったからこそ、瓶の中の泡を閉じ込めておけたわけです。泡立つワインの楽しみ方が広まったのは、イギリスの影響も大きかったと考えられています。
シャンパーニュ・メゾンの誕生と19世紀の技術
18世紀に入ると、泡立つシャンパーニュは宮廷や貴族のあいだで流行していきます。ルイ14世が亡くなった1715年以降、摂政オルレアン公の周辺で好まれたことが、流行のきっかけの一つとされています。
1729年には、ニコラ・ルイナールがランスでメゾン(シャンパーニュの生産者)を設立しました。ルイナールは、現在も続くシャンパーニュ・メゾンとして最も古いとされています。その後、多くのメゾンが生まれ、19世紀にかけて輸出が大きく伸びていきました。
技術の面で大きかったのが、澱(おり)の取り除き方です。瓶内二次発酵ではワインの中に酵母の澱が残り、濁りの原因になります。1816年、ヴーヴ・クリコの当主バルブ=ニコル・クリコ(マダム・クリコ)が、瓶を斜めに差して少しずつ回し、澱を瓶の口に集める台を考案したとされます。これが「ルミュアージュ(動瓶)」の原型となり、澄んだシャンパンを安定して造れるようになりました。
19世紀前半には、加える糖分の量と瓶内の圧力の関係も研究され、瓶が割れる事故を減らせるようになっていきます。鉄道がランスまで通じると、シャンパンはさらに広い地域へ運ばれるようになりました。
甘口から辛口(ブリュット)へ
19世紀のシャンパンは、いまよりずっと甘いものが主流でした。仕上げに加える糖分(ドサージュ)が多く、輸出先の好みに合わせて甘さを変えていたといわれます。
流れを変えたのはイギリス市場です。1846年、ペリエ・ジュエが甘みを加えない辛口のシャンパンをロンドン向けに出荷したとされ、1874年のヴィンテージではポメリーが「ブリュット」と呼ばれる辛口のシャンパンを造りました。食事と合わせやすい辛口は人気を集め、現在ではブリュットがシャンパンの標準的なスタイルになっています。甘さの表示の違いはブリュットの記事で詳しく紹介しています。
| 年 | できごと |
|---|---|
| 1662年 | メレットが英国王立協会で、砂糖を加えてワインを泡立たせる方法を報告 |
| 1668年 | ドン・ペリニヨンがオーヴィレール修道院のセラー管理を任される |
| 1729年 | ルイナールが設立される(現存最古とされるメゾン) |
| 1816年 | マダム・クリコが澱を集めるための台を考案したとされる |
| 1846年 | ペリエ・ジュエがイギリス向けに辛口のシャンパンを出荷したとされる |
| 1874年 | ポメリーがブリュットを造る(1874年ヴィンテージ) |
| 1910〜1911年 | ぶどうの調達をめぐって生産者の暴動が起きる |
| 1927年 | 法律でシャンパーニュの生産地域の範囲が定められる |
20世紀:産地の名前を守る
シャンパンの人気が高まるにつれ、他の地域のぶどうやワインを使って「シャンパーニュ」として売る例が問題になりました。1910〜1911年には、こうした状況に不満を持つ栽培農家が暴動を起こしています。
その後、産地を守るためのルールが整えられ、1927年の法律でシャンパーニュの生産地域の範囲が定められました。現在「シャンパン(シャンパーニュ)」と名乗れるのは、この地域で、決められた品種と瓶内二次発酵などの方法で造られたスパークリングワインだけです。同じ瓶内二次発酵でも、ほかの地域で造られたものはクレマンやカヴァなど別の名前で呼ばれます。違いはスパークリングワインの記事でまとめています。
まとめ
シャンパンの歴史は、寒いシャンパーニュ地方で偶然生まれた「泡」を、人々が少しずつ使いこなしていった歴史です。ドン・ペリニヨンが発明したという話は伝説の要素が大きく、実際には品質を高めた醸造家でした。砂糖で泡立たせる方法を最初に記録したのはイギリスのメレットで、丈夫な瓶もイギリスが先行していたとされます。そこにルイナールなどのメゾンの誕生、マダム・クリコの澱を集める工夫、辛口ブリュットの登場、1927年の産地の線引きが重なって、いまのシャンパンができあがりました。シャンパンの基本はシャンパンの記事で、ワイン全体の流れはワインの歴史でたどれます。
※20歳未満の飲酒は法律で禁止されています。



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